皿倉山(権現山)



左:皿倉山山頂、跡形も無い。右:砲台の名残?の石垣


左:照空陣地付近(東下)から山頂を望む、右:同左付近


米軍の航空写真(R238-No2-34、国土地理院)


航空写真を見ると、旧八幡市街の南にそびえる皿倉山の山頂に高射砲陣地が写っている
現在は各種施設が建てられており、遺構は殆ど残っていない。山頂平坦地の周辺や、斜面に建つ建物の基礎付近にそれ程古くない石垣が残っており、これらが砲台の施設跡の残骸なのではと思われる。

また「下関重砲兵連隊史」によると、日中戦争時に照空灯が置かれていた。

日付 高射戦記、砲兵沿革史、復員省資料等による記事
昭和12年 下関重砲兵連隊 照空灯1
昭和16年12月 防空第21連隊 高射砲第6中隊
昭和17年4月 防空第21連隊 高射砲中隊
防空第21連隊 照空中隊(割子川) 照空分隊
昭和19年6月 高射砲第131連隊 高射砲第11中隊 7cm高射砲
昭和19年11月 高射砲第131連隊 高射砲第11中隊
高射砲第131連隊 集成照空小隊(藤田) 照空分隊
昭和20年6月 高射砲第131連隊 高射砲第11中隊? 7cm高射砲(特)6門
高射砲第131連隊 集成照空小隊(藤田) 照空分隊
昭和20年8月 高射砲第131連隊 高射砲第11中隊? 7cm高射砲
高射砲第131連隊 照空第18中隊 照空分隊





権現山



左:権現山山頂、右:南端の南下にある平坦地と円形水槽2基


左:北西尾根にある要地用警戒機の受信所基礎その1、右:同左その2


左:北東尾根にある送信所?の基礎の一つ、右:北斜面にあるキャンプ場付近の大型水槽


米軍の航空写真(左:R238-No2-35、右:R238-No2-34、国土地理院)





航空写真を見ると、皿倉山のすぐ南西にある権現山山頂にも高射砲陣地が写っている。権現山も皿倉山同様に砲座の数は4基しか確認できず、終戦時まで4門のままであった可能性がある。詳細な写真を見ると、権現山山頂の北側に6基の砲座と、南側に4基の機銃座が確認できる。
山頂付近は中途半端に破壊され砲座等は確認できないものの、砲座があったらしき凸凹が微妙に残っている。機銃座のあった南半分には電波等が建ち、跡形も無い。
しかし斜面には幾つもの遺構が残っている。北西に伸びる尾根には超短波警戒機要地用乙の前期型の受信所2基が、また北東に伸びる尾根には送信所と思われる建物跡があり、北斜面にあるキャンプ場とその周辺には兵舎関連の遺構が幾つも残っている。山頂平坦地南端の南西下には狭いながらも平坦地があり、その下には崩れた地下壕入り口のようなものがある。探せばもっと出てくるかもしれない。
それにしても山頂ですら立地が悪いというのに、山の斜面に送受信所を築くというのは神経を疑う。それとも要地用のように受信所が複数設置する場合には、方向が限定されるので大丈夫だとでも考えていたのだろうか?

資料(8月20日21日戦闘詳報、戦史資料室:陸空 本土防空 34)によると、権現山には超短波警戒機乙が配備されており、高射砲の爆風で通信室の窓ガラスが割れたと書かれている。この記事から警戒機が権現山の高射砲陣地の近くにあった事が推測できるが、正確な場所は不明である。
また別の資料(西部防空情報関係資料、戦史資料室:本土 西部 134)によると、折角配備されたものの地形が悪かった為に探知能力は余り良くなく、昭和20年6月時点で雲仙と共に移設準備中である旨が書かれている。


日付 高射戦記、砲兵沿革史、復員省資料等による記事
昭和19年6月 高射砲第131連隊 高射砲第7中隊? 7cm高射砲
昭和19年11月 高射砲第131連隊 高射砲第10中隊