高塔山



左:高塔山公園展望台付近、右:展望台から広場を見下ろす


左:吉田磯吉の銅像のある付近、右:同左


左:健康広場、右:同左付近の円筒型水槽跡??


左:仏舎利塔、右:同左付近の広場


東側の砲座と照空陣地?、米軍の航空写真(R239_NO3-69、国土地理院)


西側の施設、米軍の航空写真(左:M122-81、右:R239_No3-69、国土地理院)



若松区の高塔山の南西にある仏舎利塔の付近に、2ヶ所の高射砲陣地が写っている。昭和19年6月頃の編成では、高塔山に8cm高射砲1個中隊と7cm高射砲1個中隊が書かれており、陣地の大きさからして北東側が8cm、南西側が7cmの陣地でないかと思われる。また高塔山そのものにも照空分隊の陣地跡らしきものが写ってはいるが、実際にそうだったかは不明。更に西側の標高201mの山頂付近にも何らかの施設が写っている。配置図からすると連隊本部の施設らしいものの、はっきりとはわからない。またこの敷地内にも砲座らしいものが見て取れるが、ここに高射砲陣地があったかどうかは資料ではわからない。別の航空写真では砲座らしいものは写っていなかった。

照空陣地は高塔山公園、南西の高射砲陣地は仏舎利塔、北東の高射砲陣地は健康広場になり、いずれも跡形も無い。


「下関重砲兵連隊史」によると、日中戦争の始まった昭和12年に、既に高塔山に高射砲陣地が築かれていた。8月21日に命令が受領され、道路整備から始めて高塔山の南西にある梨畑から更に3,40m上の高地に陣地を構築したと書かれている。また高塔山陣地では試験射撃中に腔発事故が発生し20数名の死傷者を出している。
その後の事は書かれていないが、長崎要塞と同じように昭和13年以降は撤去されたのではないかと思われる。



日付 高射戦記、砲兵沿革史、復員省資料等による記事
昭和12年8月 下関重砲兵連隊 第5中隊 7cm高射砲2
昭和16年12月 防空第21連隊 高射砲第2中隊
昭和17年4月 防空第21連隊 第1大隊本部
防空第21連隊 高射砲中隊
昭和19年6月 高射砲第131連隊 連隊本部、
高射砲第131連隊 高射砲第2中隊、8cm高射砲
高射砲第131連隊 高射砲第3中隊、7cm高射砲
昭和19年11月 高射砲第131連隊 連隊本部、
高射砲第131連隊 高射砲第2中隊(高塔山東)
高射砲第131連隊 高射砲第3中隊(高塔山西)
高射砲第131連隊 照空第13中隊 照空分隊
昭和20年6月 高射砲第131連隊 連隊本部、
高射砲第131連隊 高射砲第2中隊、8cm高射砲6門
昭和20年8月 高射砲第131連隊 連隊本部、
高射砲第131連隊 高射砲第2中隊、8cm高射砲
高射砲第131連隊 照空第13中隊 照空分隊