原山?(大牟田)
左:米軍の航空写真(R244-127、国土地理院)
左:西下の段から、奥の東屋の辺りに遺構、右:銃座Aの上から東方向を、右下から反時計周りにA→E
東屋の南付近から東を、右からB、C、D、E
左:南西の銃座A、右:Aを東上から
左:銃座Aの入り口、右:同左、逆から
左:銃座Aを上から、中は埋まっている、右:銃座Aから東を(右手前からB、C、D)
左:指揮所B、右:Bを上から、ここは比較的埋まりが少ない方
左:Bの出入口、右:Bから東方向(C)
左:銃座C、右:銃座Cの上面、矢張り埋まっている
左:Cから北西方向を、(右がE、左奥がA、その手前がB)、右:Cから北を(D)
左:Cから西方向を、右:Cから南東下にある平坦地
左:銃座D、右:Dの上面、埋まった上に草が茂ってよくわからなくなっている
左:Dから西方向を(E)、右:銃座E
左:銃座Eから東方向を(D)、右:Eから南東方向(C)
左:Eから南方向を(左がB、右がA)、右:Eの上面、やはり埋まっている
左:銃座Eを北西下の平坦地から、右:北西下の平坦地
左:テニスコートの東下の平坦面、右:Cの南東下の平坦面、を南東から
左:テニスコート(この付近には当時建物が建っており、陣地の可能性は低い)、右:テニスコートと陣地との間
左:テニスコートを南から、右:テニスコートの南上にある公園(この辺でも良いかもしれない)
三井金属九州機工の工場の西にある宮浦公園内に高射砲陣地の遺構が残っている。
近くに建てられた看板には、この直径3m程のコンクリートの円筒の上に88式7cm高射砲らしい物が乗っかった絵が描かれているが、重高射砲を置くには余りにも小さすぎる。
Webで写真を見たときには高射砲陣地の指揮所かと思っていたが、実際に行って配置と大きさとを調べてみると、A、C、D、Eの内径が全て約2.7m、Bだけが内径約1mであり、これらの個数と配置から、比較的初期に築かれた高射砲陣地付属の機銃陣地跡ではないかと思われる。
同じような機銃陣地は、広島の二葉山や長崎の金毘羅山(ここだけは航空写真だけでの確認)、北九州の沖田に残っているが、二葉山も沖田も内径約2.5m程の円形窪地が4基残り、また二葉山には円形窪地の中心部に近い辺りに内径1m程の円形窪地があり、ここと良く似ている。
内径2.5mだと、20mm機関砲でも少し小さすぎるため、恐らくは7.7mm機銃程度ではないかと思われるが確認は出来ていない。
ここに残っている銃座は面白い形をしている。カタツムリの殻のようになっている。一般には視力検査の「C」マークのようなものや、この出口の前に防護壁を加えた鍵穴形状のものは、写真や現物などでよく見かけるが、この渦巻き形状は米軍のまとめた日本軍の資料でしか見た事が無かった。そういう意味でも、貴重な遺構である。
そしてこれが機銃陣地だとした場合、近くに(重)高射砲陣地があるはずだが、周囲は完全に市街地になっている上に、航空写真からも判断できないため不明である。航空写真のそれらしい影と立地条件などから、北下150mにある平坦地か、南東150mの平坦地付近にあったのではないかと思われる。
また、この手の機銃陣地は、比較的初期の(銃座の数が4基であることから、中隊の砲数が6門に増加された昭和18年夏頃よりも前の)陣地にのみ見られるものであり、昭和16年末から昭和19年夏までの間の資料が無いので何とも言えないが、昭和18年夏よりも前に、大牟田に高射砲部隊が配置されていた可能性もある。
一応、この陣地名として、昭和20年6月の一覧表にあった「原山」としているが、実は原山町は延命公園のすぐ北に面した付近の地名であり、もしかするとそのリストの陣地とは別物である可能性もあるのだが、何枚かの航空写真を見た限り、その原山町付近にはそれらしいものも見当たらなかったことから、ここを原山陣地としておく。
日付
高射戦記、砲兵沿革史、復員省資料等による記事
昭和20年6月
独立高射砲第21大隊 高射砲第4中隊 8cm高射砲6門
昭和20年8月
独立高射砲第21大隊 高射砲第4中隊 8cm高射砲