阿波と淡路に雪が降るのだ

平成17年1月8日〜10日




朝っぱらからこんな看板に出くわしてしまった。さすがうどん王国



○1月10日

最終日。昨日の晩に買っておいたパンで朝食を摂り、6時45分にロビー集合。ホテルの近所ににある室山城を目指す。



室山城


南端に建つテレビ塔、南北を分断する土塁



郭の西にある土塁らしきもの、西側の眺め




(登り口の正解は奥の池の南東端(青矢印)、もう一つ登り口らしきものが郵便局の近く(青矢印)にも有ったが、上に通じているかどうかは確認していない。)

事前の調査で登り道が判らなかった。25000分の1の地図を見ると東に2本の道が描かれているので、東側から寄せる。
民家の間を走る細い路地の先に山へ取り付く階段を見つけ、少し登ると左右に走る遊歩道に出くわした。勾配が右に上がっているのでそちらに進むのだが、いくら進んでも折り返す気配が無い。慌てて引き返す。
引き返したは良いが、登り始めた地点を過ぎて進む内に、今度は遊歩道が下り尽くして途切れてしまった。仕方が無いので道を探すと、どうにか細い道が山裾を回っているのを見つけ、そこを進む。しかしこの道は本当に細く、とても遊歩道とは思えない。しかも地図にある東側の2本の登り道がある位置を通り越しても、更には山の南端を回っても、登り道は見つからない。毒喰らわば皿までと、そのままずっと進み続けて、南東まで回りこんで漸く葛篭折の登り道に出くわし、これを登る。ここまで30分弱。
登り始めてからは15分程で頂上。実に阿呆らしい。

頂上には南北に長く郭が幾つか連なっており、土塁らしきものがちらほら見えるがハッキリしない。東西の斜面にも帯郭らしいものが何段もあるようだが、雑木が邪魔で1段しか確認できなかった。それ程凝った縄張りでは無いようである。

城主は太田犬養といわれている。



ホテルに戻り、チェックアウト。
渋滞に遭わないように、県道を梯子しながら、高松市街の西端を目指す。



前田城


南東から、土橋(?)から北を



本郭北東隅の土塁、西側の二重堀を北から



北側の二重堀を西から、北東隅の二重堀の湾曲部




右図はそれなりにいい加減


大系には「宝寿寺」とあるのだが、Yahooの地図では見つからない。(後日談:gooの地図には宝寿寺が載っていた)仕方が無いので25000分の1の地図で大体の当たりをつけ、そこを目標にして行く。(中塚の文字の左手にある卍マーク2つ)
地図に無い道に入ってうろうろとしている内に、やっと小高い木の茂った丘らしきものを発見。ただ道が狭いので適当な場所に車を停めて徒歩で寄せてみるとビンゴ。予想した場所とは全然違う所にあった。
正方形に近い本郭と、その北と西に二重堀らしきものが回っている。郭の南と西の斜面は現代の石積みなので、元は南も二重堀だったのかもしれない。西の二重堀は南に行くに従って堀の1本が狭くなっているが、これは西側の工場建設の際に切り崩された可能性もある。また東の一段低い南北に長い郭らしきものも、当時のものかどうかは判らない。
本郭の北東隅と、西半分から北にかけて、辛うじて土塁が走っている。北半分は墓地で、中ほどに案内の看板、土橋の脇に小さな碑が建っている。

十河存春の分家である前田宗存が、文明年間(1469〜87年)に築いたといわれている。天正10年(1582年)の長宗我部氏の侵攻に遭い落城した。



県道を阿弥陀クジのように伝いながら東へと進む。雨滝山へは北西と南東から車道が延びるが、比較的道の良さそうな南東側から寄せる。それでも途中から車幅ギリギリの道になる。運転に自信が無ければ広い道の脇に停めて歩いた方が良い。ちなみに地図にある南東からの登山道は無かったのか気が付かなかっただけなのか、判らなかった。



雨滝城


本丸、本丸にある凹み



北に延びる郭に建つ神社の建物、西に延びる郭の付近にあった石垣らしきもの





注意:大系の地図の方角が90度ズレて記載されている。大系の地図の西に当たる方角が実際の北になる。

展望台のような場所(地図中の青い太点)に車を停め、そこから尾根沿いの登山道を行く。5分ちょっとで本丸に出る。
北と西、そして東と三方向に郭が伸びている。北側の郭群の中ほどには神社が建っている。東側は一段下の郭までしか確認していないが、そちらの方向から親子連れが登ってきたので道はあるのかもしれない。登ってきた西側にも幾つか郭が認められたが、雑草や雑木が茂っていたので入ってまでは確かめていない。また西の郭群の最下部には、写真にあるような石があったが、これが大系の地図にある「石組(石垣?)」かもしれない。

長禄年間(1457〜1460年)に安富盛長によって築かれた。安富氏は細川氏と共に讃岐に入り、細川氏の下で着々と地歩を固め、応仁の乱の後には讃岐13郡の内の7郡を領有するまでになった。その後も勢力拡大に努め、寒川氏から虎丸城を得た後は雨滝城には家臣の六車宗湛が入った。
しかし天正11年(1583年)の長宗我部元親の侵攻には敵わず、六車宗湛は開城・降伏した。降伏後も六車宗湛が雨滝城を守っていたが、秀吉の四国征伐後、廃城となる。




六車城


南東から、北東から



郭間の空堀(西の郭から)、西の郭の最高所:墓がある





雨滝城のすぐ南東にある。大きく西と東に郭があり、間は堀になっている。東の郭には神社が建ち見て回りやすいが、西の郭は一面の竹薮で入れない。しかし西の郭の西側の最高所が墓所となっており、そこへの道で辛うじて郭の内部に入れた。

六車氏の居城ではないかといわれている。詳細不明。



国道11号線に出て東進。昼になったので国道沿いのうどん屋で昼食。3日連続して昼はうどんになった。



引田城


西の郭の石垣、引田湾



南の郭、中央の郭の下に続く郭群



郭群にある土塁?、東の郭の東側の発掘現場



北の郭の石垣、同左(逆方向から撮影)






麓から15分程で西の丸へ出る。所々に石垣があるが、北の丸の北西隅にある石垣は立派である。いった時には幾つかの郭で発掘作業が行われている途中で、青いビニールシートが所々にかけてあった。

寒川元家の家臣四宮右近が築いたといわれているが、実際の所は不明である。大内氏の配下となった寒川氏の勘合貿易の拠点となる。しかし元亀元年(1570年)には勢力の衰えた寒川氏から三好氏に委譲され、三好長治の家臣矢野駿河守が城主となった。矢野駿河守が天正7年(1579年)の岩倉合戦で戦死した後の城主は不明だが、十河存保の勢力下に有った模様である。
天正10年(1582年)の長宗我部元親の侵攻の際には仙石秀久が援軍として引田城に入るが、翌天正11年に元親に撃破され引田城も落城する。
天正13年の四国征伐後に十河存保のもとに返るが、その十河存保は九州征伐で戦死。天正15年には生駒親正が讃岐17万6千石の領主として引田城に入るが、位置が東に寄り過ぎていたために宇多津の聖通寺城に本拠地を移動してしまう。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となる。



午後2時過ぎに全行程終了。引田ICから高速に入って、そのまま垂水まで直行。渋滞も無く午後3時半には窪谷・石神井のお二方を垂水駅まで送り届ける。



行程も、目標も、無難だった筈なのに、白巣城では土砂崩れ、室山城では道間違いとで大きく足止めをされてしまった。更には追い討ちをかけるように雪は降ってくるしと、楽勝とは行かなかった。比較的良い城も多かったのだが、トラブルのインパクトが大きすぎて、余り印象に残っていないのは残念である。


戦果
	攻撃対象	21城

	うち 棄権	0城

			21城	攻略



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